ワクワク人生のススメ!

自分がワクワクすることを沢山書く事で、人生を楽しくしたいな、と思ってます。

「シュミレーション」と頭が良いと言う話


以下はネット上での発言です。*1

頭の良さを判別するひとつの基準:シミュレーションを「シュミレーション」という(書く)かどうか。
英単語を知っていたら絶対に「シュミレーション」なんて言わないはず。


と言う発言を見たので、私は、この質問こそが「頭が悪い」と断定してしまいました。*2

すると、

この話を「頭が悪い」と切り捨てる人は、残念ながら組織のトップを志向してないし、向いていない。

という文章で反論を受けました。



まず、最初の基準に対して、
なぜ私が「頭が悪い」と思ったのか、を書かせてもらいます。


私は直感的に、この基準には2つの齟齬があると感じました。


一つ目は、
「シミュレーション」という曖昧な言葉を、
人の判断基準に使うのは危ういのではないか、
と言うこと。


二つ目は、
この基準における「頭の良さ」が定義されていないこと。


まず、シミュレーンについて論じます。

シミュレーションという言葉を判断基準に使う危うさ


それは以下のポイントがあります。
・発声は「シュミレーション」
・ネット上は「シュミレーション」も多い
・カタカナと英単語を結びつける必要性が薄い


他にもありますが、とりあえず3つに絞って話を進めます。

発声は「シュミレーション」

日本人話し言葉的には明らかに「シュミレーション」と発声している事が多いです。


日本人的には「シミュ」とは発音しにくいので、「シュミ」と発音してしまうのです。


詳しくは、こちらをご参照。
「誤字等の館:シミュレーション」


私個人的な見解ですが、
言葉というのはコミュニケーションツールな訳なので、
致命的な齟齬を生じない限り、意味さえ通じればOKだと思っております。


話し言葉的には成立している言葉を使うことが「頭の悪い」行為なのでしょうか?

ネット上は「シュミレーション」も多い

ネット上には「シュミレーションという文字」が氾濫している。


2009年9月5日現在で、両者をグーグルで調べてみると
・シュミレーション: 639,000 (約15%)
・シミュレーション:3,650,000 (約85%)


15%の割合を多いのか、少ないのか?を議論するつもりはないですが、
想像以上に書き言葉にはシュミレーションが氾濫しているのが、
おわかりになるかと思います。


もちろん、この15%の人々を「頭が悪い」と判断するのは簡単ですが、
単に単語を知らないだけかも知れない。
単に単語を知らない=頭が悪い、というのは、判断基準としては不適格な気がします。


また、その場だけ間違えたという可能性は大いにあるわけです。
たとえば「確率」と「確立」という言葉も、意識して使い分けていても、
たまに間違えることはあるわけです。


このため「シュミレーション」という文字を見たときに、
継続的な間違いなのか、その限りの間違いなのか、という事を断じ得ないと思います。

カタカナと英単語を結びつける必要性が薄い


私個人的には、カタカナを英単語と結びつける必要性をそれほど感じられないのです。
カタカナ言葉というのは、誰に対して使うのか?と言うのを考えればよく分かる話だと思います。


そうです、カタカナ言葉は「日本人」に対して使うのです。


日本人としてのコミュニケーションツールであるカタカナを、
敢えて英語と結びつける必要性は薄いと私は感じます。*3


頭の良さ

そして、「頭の良さ」が定義されてないので、何を判断したいのか?
が正直よく分かりません。


「頭が良い」という言葉は抽象度が高すぎる言葉です。


ある人は、理解度が早いと「頭が良い」といい、
ある人は、同時通訳が出来る人を「頭が良い」といい、
ある人は、仕事の成果をきっちり出す人を「頭が良い」という。


一般論的に「頭の良さを判別するひとつの基準」と言われても、
それは「どんな頭の良さを判別するの?」と逆に質問したくなります。


要は、この基準における、求められる頭の良さを教えて欲しいところです。
「頭の良さ」の定義が出来ないと、議論もかみ合わないと思います。


個人的には、
「○○才能を判断するための基準」くらいが、
抽象度が低くて良いかな、と感じます。

判断基準のダブルスタンダード

あと気になる点がもう一つ。

この話を「頭が悪い」と切り捨てる人は、残念ながら組織のトップを志向してないし、向いていない。

この基準をもう一度読み直して欲しい。


最初の質問自体に対して、
頭が良いのか、悪いのか?という議論をしているはずなのに、
なぜか「組織のトップを志向してないし、向いてない」という話になっている。


ちょっと話が複雑になりますが、
最初の質問(シミュ・シュミ基準)を切り捨てる人は「頭が悪い」なら、
たぶん、上述の私の主張を覆すほどの価値基準が、
最初の質問(シミュ・シュミ基準)に含まれている、という意味なので、
有る意味腑に落ちます。是非、その価値基準をご教授願いたい。


ただ、最初の質問を「頭が悪い」と切り捨てる人が、
なぜ「組織のトップを志向してない」のか?が理解できない。
私が主張しているのは、「質問自体の完成度の低さ(もろさ)」、
であり、質問をする行為を否定している訳ではないからです。


組織のトップとしては、人を峻別するために質問を持つ必要があり、
人を峻別するための価値基準を常に持つべきだ、
と言う主張なら納得できます。


それは大いに賛同しますし、できれば質問は複数するべきだ、
とアドバイスしたいです。


ただ、私が主張したいのは、
「最初の質問(シミュ・シュミ)だけで、 
 人を峻別するという基準は、完成度が低いと感じるので、あまりにも危険なのではないのか?」
という事であり、
「組織のトップが人を峻別するための質問を持つ必要がない。」
という事を言っているわけではありません。


このあたりを混同しているのでは?と思ってしまいました。

まとめ

・元々の頭の出来は良いんだから、もっと良い基準を書いてくれよな〜
・でも「頭が悪い」は言い過ぎた、ごめんね。
ということです(笑)

最後に

この文章は、
もともと私の中で昨晩からもやもやとしている事を、ちょっと整理するためのメモです。
自分なりに「すっきり」するためだけに当初は書きました。


きちんと読んだ上での異論・反論は受け付けますんで、よろしく。
そのために公開しているわけですから。


ともあれ、想像以上に長文になってしまいました。
読んでくれた人には感謝します。どうもありがとう。

*1:個人名は敢えて伏します

*2:この行為自体は非常によろしくなかったと、反省しております。

*3:もちろん必要性が無い、と言っている訳ではないので誤解無きよう